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【おススメ本】「ジェンダー」を考える
- 07_おすすめ本・映画,08_東京大学
東大卒講師が勉強のノウハウを楽しく教える、兵庫県の共明塾です。
今回は「ジェンダー」について考えます。
【「ジェンダー」って何?】
「ジェンダー」とは「文化的・社会的性差」を意味します。
もちろん、生物学的に「オス」「メス」は決まっているのですが、それとは別に文化や社会の側から与えられたり求められたりする「男らしさ」「女らしさ」のことです。
では、「男らしさ」「女らしさ」とは、何を指すのでしょうか?
何か答えがあるようで、実は考えれば考えるほど、難しい問題です。
文化によっては、女性がサッカーの試合を観に行くことすら禁じられている国があります。
あるいは、マララさんを襲撃したのは、「女性が学校で勉強する」ことを嫌った人たちでした。
これもいわば「女らしくない」という視点があるからです。
それに比べると日本は...と言いたくなりますが、さて、政治の世界などを見てみるとどうでしょうか?
【誰のための政治か】
日本の歴史をたどると、その理由が見えてきます。
もともと日本の宗教観が、女性に対して寛容であることから考えると、一般庶民レベルでは、男女の性差はそこまで意識されていなかったことでしょう。
あえて言うなら、「労働力」になるかどうか、が基準だったはずです。
一方で、武家の社会は、「戦い」を主とするが故に、男性が主となり、儒教の影響もあって、「男らしさ」「女らしさ」が形成され、後段で紹介する『女大学』といった、女性の権利を縛り付けるような本も売れていましたが、むしろそれが例外だったのです。
しかし、明治政府の「富国強兵」は、徴兵制をもって、いわば「一億総武家社会」(当時の人口が一億という事ではなく比喩表現です)を目指したものです。
男性を「戦力」として国家に捧げさせる過程で、武家社会のルールが一般庶民にも入り込み、男尊女卑の考え方が「一般化」されてしまったのです。
今、日本で「伝統」と言われている「軛(くびき)」の多くに、明治政府が壊し、自分たちに都合よく再構築したものが含まれていることと(「神仏分離令」などがその最たるものです)軌を一にするのです。
つまり、平塚らいてう氏の言う「元始、女性は太陽であった」社会を裏切ったのは武家社会であり、それを一般に敷衍した明治政府であったと言うことが出来ます。
あるいは、選挙権の変遷について、その背景にある思想を考えてみても良いでしょう。
国際的にも初期の頃は女性の参政権が認められていなかったとは言え、貴族院による反対などを鑑みれば、明治政府が「誰のための」政治を目指したのか、ということが分るでしょう。
そして、その流れを汲む、現在の世襲中心の政治世界(政治家だけではなく、それを支える「伝統的」新興宗教や思想団体等も含む)が、口先では女性活躍を謳いながら、女性からの搾取を当然としているのは、世襲そのものも含め、自分たちにとって都合が良い考え方だからに他なりません。
また、それに媚びるような女性政治家が可愛がられ、(国民ではなく)権力者に対して寵を競っているのは、その流れに棹をさしている(加速させている)と言うことが出来るでしょう。
【サイズ表記だけで良くないか?】
東京大学に「モースの便所」があることは、畑正憲(ムツゴロウ)先生の著作で知りました。
大森貝塚の発見で有名なモース先生ですが、東京大学では動物学を教えていました。
そのモース先生が農学部に設置させたのが「女子トイレ」。
これを「モースの便所」と言うのだそうです。
まだ、東京大学、というよりも女性が大学で学ぶ、ということ自体が考えられなかった時代に、モース先生は「これからの時代に絶対に必要となるから」と仰られたそうです。
ムツゴロウ先生のお話は、その女子トイレを合法的に見るために...と続くのですが、それはまた別のお話。
今では東京大学にも当然、女子トイレが数多ありますから、私自身はどれが「モースの便所」なのかは分からず、探すこともしませんでしたが、東京大学という大学が、その志を受け継いでいる、ということは知っていて良かったと思います。
さて、東京大学の教養学部時代、「ジェンダー論」という授業を取りました。
社会学的な側面や、歴史学からのアプローチ、様々な切り口があったのですが、シンプルであるがゆえに一番印象に残っているのは、ドイツ人の女性の先生が言われた「日本では軍手を買おうとすると、"男性用""女性用"となっているが、私の手は大きくて"女性用"では入らない。S・M・Lで良いのではないか」という話でした。
言われて見るとその通りで、例えば「子ども用」の表記は、分かりやすさや売り方という観点であっても良いでしょうが、大きな手の女性もいれば、小さな手の男性もいるのですから、大きささえ分かれば良いわけです。
ま、これも20年前の話ですから、今、ホームセンターなどに行って、そういう表記を見かけることはあまりない、という印象はあります。
少しずつではあっても、社会が変わっている、ということの証左なのかもしれません。
もちろん企業の戦略的に「女性用」と謳うことでターゲットを明確にし、アピールする狙いがある場合もあるでしょう。
ただ、これからの社会、あるいは世界を見据えた場合に、もっとダイレクトに機能・品質を紹介することで、開けるマーケットもあるのではないか、と思います。
そしてこのお話は、上野千鶴子先生の伝説の入学式スピーチにも繋がるのですが...これもまた、別のお話、にしましょう。
【福沢諭吉とオノ・ヨーコ】
本草学者として有名な貝原益軒氏が書いたものをもとにした『女大学』という本が、江戸時代に広く読まれました。
「書いたものをもとに」としたのは、もとになった『和俗童子訓』とは、少し方向性が違うと思われるからです。
いわゆる封建的思想に基づいた女性観で描かれていて、「夫を主君として...」のような価値観を拡げた本であり、渋沢栄一先生などは女性に知識や学問を与え社会的進出を促す妨げになったのでは、と喝破されています。
しかし、それ以上に痛烈にそして痛快に批判を繰り広げたのが、福沢諭吉先生です。
題して『女大学評論』。大正末までに50版を数えたベストセラーなのです。
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基本的には「女性の、っていうけど、男性にも当てはまる当たり前のことだよね? てか、モラル崩壊している男性にそれ言う資格ある?」というスタンスで書かれています。
「"妻は夫を天とすべし"って言うなら"夫は妻を神とすべし"もセットだろ? "夫に背いたら天罰を受ける"なら"妻を虐待したら神罰を受ける"も言わなきゃな!」
「"小姑小舅は夫の兄弟であるから敬え、夫の兄嫁も自分の姉のように扱え"って、親類づきあいを円滑に、ってのは分かるけど、夫の兄とか、ましてやその嫁さんなんて、血縁ないんだから、自分の兄弟のように扱えって押し付けは、人間の天性に背いてるって分かるよな?」
「"妻は夫に仕えろ"って言うけど、政治に例えるなら、夫が外務大臣で、妻が内務大臣ってことだよ。両大臣は共に一国を経営しているのだから、内外の別はあっても身分に軽重はない。内務大臣は外務大臣に仕えろと言ってると考えたら、おかしいよね。」
って、こんな現代語訳したら、慶應の方に怒られるかもしれませんが...。
監修された林望先生曰く、制度の上でこそ男女平等となった現代でも、福沢諭吉先生が喝破された差別的意識はいまだに残っているのではないか、と。
福沢先生の見抜かれた、男女差別の本質と克服すべき課題は、今でも十分に傾聴に値します。
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「ジェンダー」を考えるにあたって参考になる、もう一つの作品を紹介しましょう。
オノ・ヨーコさんの『ただの私』所収の「日本男性沈没」です。
この本全体が、「ジェンダー」について考えさせられる内容なのですが、特にこの1編はすごい。
現在当たり前に行われている日常の「男性」と「女性」を入れ替えて描くだけで、こんなに「違和感」を感じさせられるのか、と。
読んで感じる「違和感」が、そのまま「性差」なのだと言えます。目から鱗がポロポロ落ちること間違いなしの傑作です。
【「多様性」の重要性】
「ジェンダー論」に向き合うことは、多様な生き方、多様な価値観について考えを巡らすことでもあります。
他の生き物の世界を見渡せば、先日紹介した『アリ語で寝言を言いました』の中に出てくる「真社会性生物」であるアリのように多様な生き方を進化させたものもいますし、あるいはカタツムリやミミズなど雌雄同体の生物たちだっています。
生物多様性があるからこそ、地球は豊かな生き物の宝庫になっています。
同様に人間社会においても、多様な価値観を認め合うことは、社会での生きやすさにも繋がってくるのではないでしょうか。
- アート,ジェンダー論,上野千鶴子,東京大学,東大,林望,福沢諭吉,ムツゴロウ,畑正憲,オノ・ヨーコ,性差
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